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大須賀淳
2024.1.4 07:06その他ニュース

【連載】ゴー宣を通して時代を語る:第13回 1995年その2

ちょうどこの連載が、1995年の阪神・淡路大震災の話に差し掛かるかというタイミングで、元旦から大変な震災が発生してしまいました。

 

今回のサムネイルに引用した画像は、ゴーマニズム宣言第137章「阪神大地震チャリティー漫画」の冒頭部分ですが(よしりん先生はこの回の原稿料を全額寄付されてましたね)、このモノローグはとても示唆的です。

 

これほどの大惨事が…

これほどの文明の無力が現出しようとは…

むろん その文明の無力を克服する手段も…

すみやかな文明の再攻勢で乗り切るしかないのだが…

 

特にこの文言を強く意識していたわけでは無いのですが、東日本大震災における一連の出来事に遭遇するまでは、これを大幅に単純化したような意識が自分の中にありました。

 

例えば、「原発内で作業するロボット」を紹介するTV番組を観た事があったので、事故などが発生した場合も、最先端のテクノロジーが投入されて「すみやかな文明の再攻勢で乗り切る」光景が展開される事を期待していました。

 

しかし実際は「文明の無力の現出」をより強烈に見せつけられる事態に。

 

そこで多くの事を学んだはずだったのに、私は相変わらずの能天気のままであった事を一つ告白します。

 

コロナ騒ぎの最中、一番最初に「短期間でワクチンを作れる新しい技術がある」と聞いたときには、正直「実際の効果はどうあれ、それで人々の過剰な不安が取り除かれて騒動が沈静化するなら、良いんじゃないか?」と感じました。

 

詳細を知れば知るほどその気持はあっという間に霧散したものの…その「文明の利器」の正体は、元々は幸運にも低リスクな状況に恵まれたはずの日本に、ウイルスよりはるかに大きい「禍」をもたらすものだった…。

 

「文明」はあまりにも強烈な魅惑を我々にもたらしてくれるので、ついつい何度もその甘言に翻弄されてしまう(自分自身の生業も、ちょっとその片棒を担いている面が確実に存在します)。

 

一方、現実の困難を打破する手段としての「文明の再攻勢」は不可欠なもので、その活用においてもっとも重要なものこそが「思想する事」なのだと思います。

 

これから生きていく中で、私はまた何度も文明との距離感に悩んだり、誤ったりするかもしれません。だけど、その藻掻きの中に少しでも「希望」につながるヒントを見出して行こうという意地だけは、何としても持ち続けたい。

大須賀淳

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